別れの日
6日に父方の祖父が亡くなりました。94歳でした。
先月の20日夜にバイトから帰宅すると、祖父が父の実家のトイレで倒れた事を母から伝えられ、その日の深夜に搬送先の病院まで母と二人で車で駆けつけました。
母と救急連絡した父と3人で待合室にて1時間ほど待つと、病院のスタッフから私たちの名前が呼ばれ、祖父が担架に乗せられて治療室から出てきました。倒れたものの意識はあると事前に聞いていましたが、その時の祖父は目を閉じて微動だにせず、そのまま別の治療室まで運ばれていきました。
担当医から肺の病気にかかっている可能性があると告げられました。ただ、その日のうちに病名の特定はできず、検査には数日かかると説明されました。
再び治療室から出てきた祖父は、病室まで運ばれていきました。祖父の身体がベッドに下ろされると、しばらくして少しだけ声を出してくれました。声を聞けて意識があると分かったのは一安心しましたが、身体の方は依然として動かしていませんでした。
別れ際、祖父の耳元に近付いて「さよなら」と声を掛けました。反応は返って来なかったものの、きっと自分の声は届いているはずと思って病室を後にしました。
病状が良くなって再び元気な姿を見せてくれると信じていましたが、残念ながら私が生前の祖父の姿を見たのはこの時が最後になってしまいました。
物静かで穏やかな性格で、私が子どもの頃からずっとお世話になっていました。
毎年の元日には家族で祖父母の家を訪ねて、共に新年を祝っていました。子どもの頃はお年玉をもらっていました。
小学生の頃、弟と二人で祖父母の家に一泊したことがありました。車庫に置いてあった祖父のバイクを興味本位で動かしてたら、それが見つかって怒られた事を覚えています。温厚な祖父から怒られたのはその時の一度しかなかったので、今でも思い出の一つに残っています。
祖父母は家庭菜園をやっていて、栽培した野菜や果物はよく私たち家族の食卓に並んでいました。去年の秋には、熟した柿が多く実った木から柿を、「こんなに全部食べれるのかな?」と思うほどたくさんちぎって自宅に持ち帰り、毎日のように食後に食べていました。どの柿も甘くて美味しかった!
私はそれまで柿は好きでも嫌いでもなかったのですが、その時からすっかり柿好きになりました。
(祖父母の家の庭にある柿の木。9日撮影)
祖父母の家に顔を見せに行くのは、ここ数年は月に1回あるか無いかほどになっていましたが、訪ねた際は私が祖父に「こんにちは」と挨拶すると、祖父は「おおっ、来たか」と嬉しそうに笑顔で返答するのが常でした。もうその挨拶を交わす事は無いと思うと寂しいです。
子どもの頃から数え切れないくらい野菜や果物をもらったり、お小遣いやお年玉を頂いたりしたにも関わらず、自分から祖父に何かプレゼントを送ったり、日頃の感謝の気持ちをはっきりと伝えたりした記憶は残念ながら無く、その点はモヤモヤした気持ちが残っています。学校を卒業したこと、大学生活をしてた時にバイトを頑張ってること、社会人になったことなど、スローペースながら自分の成長を報告できたのが、それに応える形になっていたでしょうか…。
幼少期に祖父の顔を覚えてから今まで、25年近くのお付き合いでした。
長い間、有難うございました。そして、お疲れ様でした。